研究内容

1.がん微小環境における細胞間?代謝ネットワーク

がん細胞の異常なエネルギー代謝におけるピルビン酸脱水素酵素PDHの役割
 がん細胞では、そのエネルギー産生を解糖系に高度に依存した異常な代謝様式がしばしば認められます。このような代謝様式は本来、細胞が低酸素環境におかれた時に引き起こされるものですが、がんでは通常酸素環境においても認められ、その分子機構はこれまで明らかではありませんでした。この疑問に答えるために、細胞の主たるエネルギー産生過程「解糖系―TCA回路―電子伝達系」の中で、解糖系とTCA回路を結びつける働きをしているピルビン酸脱水素酵素PDHに着目した解析を行いました。乳がん細胞を低酸素環境で継続的に培養したところ、PDHを構成するサブユニットの一つPDH-E1βの発現が低下することを新たに見出しました。このPDH-E1βの発現低下は、その後の再酸素化により通常酸素環境に戻った後にも持続しており、このことで通常酸素環境においても解糖系に依存したエネルギー代謝が引き起こされていると考えられます。実際に、PDH-E1βをshRNAを用いてノックダウンしたところ、典型的ながん性代謝の表現型を示しました。このことから、PDHの発現低下ががん性代謝を形成するのに重要な役割を担っていることが明らかになりました。さらに、PDH-E1βをノックダウンした乳がん細胞をヌードマウスに移植したところ、対照群と比べて腫瘍形成能が著しく低下していることが判明しました(図1)。このことから、解糖系に極度に依存したエネルギー代謝のみしか利用できない乳がん細胞では、腫瘍を効率的に形成できないことが明らかになりました。したがって、PDH-E1βの発現や活性を持続的に抑制することで、乳がん細胞の腫瘍形成を効果的に抑制できる可能性が示唆されます。現在、PDHの抑制が腫瘍形成を低下させる分子機構の解析をさらに詳しく進めており、その成果をがん治療へと結びつけたいと考えています。

2.慢性期低酸素応答を制御する新しい分子機構

CREBとERストレス応答経路の相互作用
 がんが存在する微小環境は低酸素?低栄養?低グルコースであり、そのような環境に慢性的にさらされているがん細胞はERストレスシグナルが活性化されています。私たちは慢性的な低酸素環境でCREB、NF-κBが活性化されることを見出したことから、まずCREBに着目してERストレス応答との関係を解析しました。その結果、CREBはがん細胞がERストレスにさらされることで活性化されることを新たに明らかにしました。さらに、CREBをノックダウンした細胞では、ERストレス応答経路の中心分子PERK, IRE1αの発現が低下して、ERストレス応答が顕著に抑制されていました。がんにおけるERストレス応答経路の活性化は、がんの生存維持に働くばかりでなく、上皮間葉転換を引き起こしたり、血管新生を促したりすることで、がん転移を促進することが報告されています。そこで、CREBノックダウン細胞をマウスに移植したところ、肺への転移が有意に減少することが明らかになりました。この細胞では、低酸素下でCREBによって誘導される細胞外マトリックス構築や血管新生に関わる遺伝子群が低下しており、その結果として、肺転移が減少したと考えられます。CREBは、慢性期低酸素で活性化されてその標的遺伝子の発現を制御することに加えて、ERストレス経路の増強にも働くことで、がん細胞の転移能を亢進していると考えられます(図2)。CREBをがんにおける慢性期の低酸素応答?ERストレス応答経路の両経路を抑制するための主要な標的と捉えて、その活性を阻害することによるがん抑制効果の検証を進めています。

低酸素性のエピジェネティクス制御

PDHが担う遺伝子発現制御機構
 PDHはミトコンドリアのマトリックスに局在する代謝酵素であることが知られていましたが、最近、核にも局在することが発見され、注目されています。私たちも乳がん細胞においてPDHが核内に存在することを明らかにしました。さらに、PDHは核内でもミトコンドリア内と同様の複合体を作り、酵素活性を保持していることを示しました。PDHの活性制御機構にはリン酸化と発現調節の二通りあることがこれまでに報告されています。PDHの制御機構をミトコンドリアと核で比較したところ、低酸素下ではミトコンドリアPDHのリン酸化が顕著に起こるのに対して、核PDHのリン酸化は限定的でした。一方で、核PDHのタンパク質量は低酸素下で顕著に減少したことから、核PDHの制御は発現量によって主に制御されていると考えられます。PDHは核内でアセチルCoAを産生して、ヒストンのアセチル化を亢進します。私たちは乳がん細胞でPDHをノックダウンすることにより、ヒストンH3のアセチル化が減少することを明らかにしました。同様に、ヒストンアセチル化の低下は、乳がん細胞を低酸素環境で培養した時にも認められました。この時に、細胞死、免疫応答、低酸素応答に関与する遺伝子群の発現低下がみられたことから、核PDHは遺伝子発現制御を通して、これらの生理応答に働くことが示唆されました。がんの進展には様々な要素が関与しています。その中でも、代謝と遺伝子発現は主要な要素です。本研究成果は、PDHがその両方の制御に関与していることを示しており(図3)、がんを抑制するための効果的な標的となると考えて、研究を進めています。